坂上香監督の最新作となるドキュメンタリー映画『コール&レスポンス』の試写会に参加してきました。2026年12月5日より全国で順次公開されていく予定です。上映時間は3時間49分と超大作で、途中休憩をはさみながらの鑑賞でした。
九州の3つの少年院で、2020年から5年をかけて行われたラップ・ワークショップの様子を追った映画です。講師にはラッパーのFUNIさんほか、さまざまなアーティストが関わっています。少年院にいる若者たちが自分の経験からリリックをつくり、サポーターとして参加する市民が、そこに声と言葉を返していく過程がていねいにたどられています。
前作『プリズン・サークル』が描いたのは、刑務所(島根あさひ社会復帰促進センター)のなかにつくられた「TC(Therapeutic Community=回復共同体」が中心でした(アフターストーリーとして、施設の外でのTC の取り組みもありましたが)。そこでは、施設の訓練生たちが自分の経験について語り、他者の経験に耳を傾け、それにまた誰かが応答するという「対話」を積み重ねていくことの重要性が描かれていたと思います。
今作の『コール&レスポンス』にも、TCの思想は受け継がれています。しかし、明確に大きな変化があります。それは、対話がラップになったことと、施設内に閉じるのではなく、市民サポーターも参加して壁を超えて、声や言葉が行き来することです。
この「行き来」することが、私にはとても印象的でした。映画に登場する少年たち自身もまた、さまざまな施設を行き来してきた存在でもあります。彼らの身体は、この社会の制度によって場所を移されてきました。家から施設へ。施設からまた別の施設へ。彼らはそんな経験を「フツー」と、素朴に答えています。
施設は、ある人間を社会から物理的に隔離するだけではなく、その人の姿を社会から見えなくして、あるいはその人の声を社会から聞こえにくくする場所でもあると思います。私たちは、少年院にいる人「について」語ることはあっても、その人「から」語りかけられることはほとんどありません。「非行少年」、「加害者」といった言葉で彼らを説明することはあっても、その人がどんな人生を歩んできて、何に傷つき、何を欲していて、どんな言葉を抱えて生きているのか、その声を聞くことはほとんどありません。
ですが、この映画でつくられたラップ、あるいはコール&レスポンスはその関係を反転させます。
彼らについての言葉ではなく、「彼らから」の言葉がこちらへやってくる。二十代から七十代まで、 さまざまな背景をもつ市民サポーターがその言葉を受け取め、また応答する。応答に対して、少年たちもまた言葉を返す。コール&レスポンスに終わりはないように見えました。
ラップ、あるいはコール&レスポンスは、ブラック・ミュージックが育ててきた重要な形式でもありますが、ポール・ギルロイは『ブラック・アトランティック』で、この形式について、声を投げかける者と応える者、演奏する者と聴く者の境界をゆるめ、意味や共同性がその関係のなかでつくられていく実践として論じています。
ただ「自分を表現する」のではない。まだ自分でもよくわからないことを、誰かに向けて声にしてみる。応答が返ってくる。そして、その応答を受け取ったとき、自分でも知らなかった自分の声に出会う。
ここで対話が、音楽になります。それは、多声的(ポリフォニー)なものとして。ポリフォニーは、多くの声が一つの声へと統合されるものや調和ではありません。それぞれの声が、それぞれの立場や矛盾を残したまま、同じ空間に存在し、互いを変化させ続けるものです。
Hip-Hopには、社会の周縁に置かれた人びとが、他人に語られるのではなく、自分たちの経験を自分たちの言葉で語ってきた歴史があります。同時にラップは、強さやタフさ、舐められないこと、ときには「ワル」であることの「カッコよさ」とも結びついてきたように思います。
日本語ラップでも、『高校生RAP選手権』や『フリースタイルダンジョン』以降広く知られるようになったMCバトルでは、強い言葉を即座に応酬し、相手を圧倒することが魅力になっていきました。不良やアウトローとして生きてきた経験が、Hip-Hopの表現には強く結びついています。
だからこそ、「少年院の少年がラップをする」という組み合わせは、とても自然です。登場する少年たちのなかにも、ラップが好きだという子もいました。ワルな少年がラップをする。それだけなら、社会がすでに知っている物語やイメージをなぞるだけになってしまいます。
ですが、この映画で起きていたのは、むしろその逆だったように思います。なぜなら、決してうまくはないからです。そして、いわゆる「少年院にいる少年」として一般にイメージされる不良とも違う印象を持つのではないかなと思います。何をしてしまったかはさておき、とても素朴でどこにでもいそうな少年たちに見えます(どう見せるのかという部分には、坂上監督の闘いもあるようですが)。
この映画では、ラップは「うまくなくていい」ものとして差し出されているように見えます。講師のFUNIさんが、リズムに乗っていなくても、語りかけるようなラップがあってもいいと、少年たち一人ひとりにあったスタイルを一緒に探り、彼らの声を引き出す背中を押しているようでした。
けれどそれは、「うまくなろうとしなくていい」ということでもありません。少年たちは、真剣にリリックをつくっているし、かっこいいリズムやライム(韻)をふもうと表現を探究しています。ただし、そこで求められている「うまさ」や「カッコよさ」は、誰かを打ち負かすためのものではありません。
自分が経験してきたことに、どんな言葉を与えるのか。何を語り、何を語らないのか。どんなリズムに乗せるのか。そして、誰に向けて発するのか。経験は、そのままではリリックになりませんが、自分の経験との距離を測り、言葉を選び、他者に差し出せる表現につくり直しているように見えました。
「(ワークショップがあった)今日は本当の自分になれた」と、少年たちのセリフもあったと思いますが、その経験は、他者に向けて自分で納得のいく言葉を差し出せた、という経験なのではないかなと、勝手ながら思いました。
強い声でなくていい。傷ついたことも、怖かったことも、誰かを必要としていたことも、リリックにできる。ワルであることを表現するために使われてきたラップが、ここでは「ワルでなければならない」という鎧を脱ぐためにも使われているようでした。
そこには、「男らしさ」の問題もあるように思います。
強くあれ。弱みを見せるな。負けるな。舐められるな。自分のことは自分でなんとかしろ。こうした命令は、男の子が育つ過程で、いつのまにか身につけさせられていきます。少年院にいる少年たちを、その単純な体現者として見るべきではありませんが、むしろ、傷ついたり、力を奪われたりしてきたときにこそ、タフであること、「ワル」であること、あるいは自分にとって身近だった「暴力」が、自分を守る鎧になってきたのかもしれません。
「なんであの時、組織に入っちゃったんだろう…」と、自分でもまだわからない経験を抱えたままの少年もいました。
ベル・フックスは、家父長制が男性に対して、感情から切り離されることを要求してきたと論じています。傷ついても、傷ついていないふりをする。怖くても、怖くないふりをする。痛くても痛くないふりをする。誰かを必要としていても、一人で生きられるふりをする。
そう考えると、この映画でラップをすることは単純に「弱さをさらけ出す」ことではないけれど、少年たちが出会う大人たちも、決して完璧でない存在であることを知る過程ではあるような気がしました。
ラップという表現形式がそうさせるのだと思いますが、弱さや傷つきであっても、その声は力強かったりします。西鉄バスジャック事件の被害者である山口さんは、「切りつけられた人の気持ちわかる?」と、少年たちの声に対して挑発的に問いかける場面もあります。
壁の外にいる人も内にいる人も、傷つきや不安や孤独を、時間をかけてリリックにし、誰かに差し出す。そして、みんなでそれを聞く。
あと私は、この映画をクィアにも観てほしいと思っています。明確な理由は今はまだ言えないですが。
この映画を、単純な更生の物語や、表現を通した「解放」と呼ぶことには慎重でありたいと思います。現実に彼らが直面している社会の問題(福祉の脆弱さなど)や、少年院の壁も制度の権力も、なくなるわけではないからです。
その意味で『コール&レスポンス』が見せてくれるのは、壁のない世界ではなく、壁があるままでも、それでも声を渡しあうことのできる関係性だと思います。一度の応答で何かが解決するわけではありません。傷ついてきた時間も、社会の不平等も、少年院という制度も、そのまま残っています。それでも、誰かの声を受け取ることは、その人を「非行少年」や「加害者」という言葉の向こう側に閉じ込めないための、小さな実践にはなるのだと思います。
