【報告】奈良市アートプロジェクトにて、ワークショップ&展示を行いました

奈良市アートプロジェクトのプログラム「ならまちワンダリング」にて、「偶然と選択の作詩ラボ」のワークショップ、および展示を終えました。

「ならまちワンダリング」は、奈良のまちなかを彷徨い、新しい表現を創造し探求することをテーマに昨年スタートしました。脳科学の用語でもある「ワンダリング」には、「さまよう」「迷う」などの意味があります。それらは人間の認識と行動を促し、思考や学びを深めるために基本的で重要なこと。
(ならまちワンダリング Webサイトより)

「偶然と選択の作詩」では、新聞から切り抜いた言葉が集められた箱の中から、ひとつまみ紙片をつかんで手に取り、偶然手にしたその言葉を組み合わせて作詩をしてみよう!というものです。もともとは、夏のオープンキャンパスにて、高校生向けにつくったプログラムです。

※参考「【イベントレポート】夏のオープンキャンパスにてワークショップを開催しました!

この作詩法は、20世紀の芸術運動ダダイスムの創始者として知られるトリスタン・ツァラから着想を得ています。この運動は、第一次世界大戦の最中に、スイス・チューリヒに戦禍を逃れて集まった芸術家たちによるもので、理性なんて信じたって人間は戦争ばっかりじゃないか(しかもその理性なるものはヨーロッパの白人男性しか持たぬものなのかという疑義も提示される現在)、それならあらゆる主体性や意味や、芸術の根拠となるあらゆるものを拒否しようと、偶然性を生かした創作方法が生み出されていきました。

※参考:「ダダ」(artscape Artwordsより)

今も、世界で戦争や虐殺の戦禍が絶えないなかで、あらためてこの創作方法をとってみることで、何か気づきは得られないかと、人々が取り組みやすいかたちに置き換えて設計しました。

おそらく決定的に異なるのは、「選択」の場面があることです。すべてを偶然にするのではなく、選択する場面をはさむ。おそらく私はここに、まだ人間を信じている部分がありそうです。

偶然、自分の身にふりかかったことを引き受けて、何かを選択するという主体的な場面を重ねるなかで自分自身の何かの軸をつかんでいく、それはまるで人生のようですね。

ただし、今日、この「偶然性」は、「親ガチャ」に代表されるような、決して肯定的には受け取れないものにもなっていると感じます。偶然生まれ育ったその環境で、人生がもう決まってしまうような感覚。そんな感覚が支配する中で、自らの選択のありようでいくらでも人生はつくれるんだと、そう呼びかけるのはどこか胡散臭い自己啓発であり、自己責任論に加担するような気がして、大きな声では言いにくい。。。

是正されなければならない格差はたしかにある。だけれども、”運命”に支配されずに自分の人生にしていくためには、主体的になれる場面、自らの感覚を信じて選択・決断する場面を積み重ねていかなければならないのでしょう。

偶然選んだ紙片の中から詩をつくる時、その手にした言葉の中に、欲しい言葉が見つからないと感じたりもする。使える言葉の選択肢の多い・少ないがどう人の頭を悩ませるか、紙片をちぎってみたり、色を塗ったり、裏側をあえて使ったり、新しい言葉をオリジナルで生み出してみたり、いろんな仕方で台紙を埋めていっている様子を見ることができました。自分の琴線に引っかかる言葉に、やはり個性が出て、思ったより表現の幅があったように感じます。

また、新聞の文字を使うことで、今この社会にあふれている言葉にも向き合うことができ、全国紙と地方紙でも出てくる言葉の違いがあるなどの発見もありました。

今回、いくつかの反省点があります。まずひとつめは、漢字がわからない子どもにとってはハードルが高かったことです。全体の場の中では、子どもが遊べる「にぎにぎ&とぎとぎ」がすぐ横にあるので、子どもがそれにいそしんでいる間に、大人の親が取り組めるような場面もありましたが。

しかし、好奇心旺盛なお子さんは、絵を見つけて切り抜いて、色を塗ってみせたり、読めなくても選んだ言葉の組み合わせが面白かったり、そばにいる大人に言葉の読み方や意味を聞いたりしながら取り組んでくれました。

同様に、外国人の方にとっても、文字が読めないと抵抗があるようでした。ミャンマーから来日して、もう数年日本に住んでいる方は、つかみ取った言葉を辞書でひとつひとつ調べ、丁寧に言葉を選び、「差別 消える」という、大変重要なメッセージを残してくれました。

もう一つの反省点は、「誰かと一緒につくるもの」という感覚をあまりつくれなかったことです。親子で取り組んでくれている風景はよかったのですが、個人ワークになりやすい設計でした。

すぐそばにあった「にぎにぎ&とぎとぎ」も、やすりでひたすら木片をやすりがけして、積み木をつくるというもので、一人で没頭することもできるのですが、できあがった木片が積み木になって、次の人が遊べる状態になるという、そんな循環をつくることができませんでした。

新聞の紙片のみならず、参加者に「最近気になる言葉」のようなものを残してもらって、その言葉も拾って作詩につながるような仕組みをちゃんとすればよかったかなと。

あるいは誰かが作った作詩について絵を描いてもらうとか、朗読してもらうとか、そんなパフォーマンスタイムをつくってもよかったかもしれない。

昨年は、偶然「本」と出会う、自分が普段出会わないような言葉に出会う、そして本を通して交流する場をつくってみました。今後もこの「偶然」という可能性を少し探ってみたくなりました。

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